東大2002年国語第1問現代文 村上陽一郎『生と死への眼差し』

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こんにちは。

本日は、2002年度東大国語第1問、『生と死への眼差し』について解説していきたいと思います。

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【解答例】

設問(一) 自分自身の死は決して体験されたことはなく、また論理的に想像することさえできず、将来体験してわかるしかないものである、ということ。(64字)

設問(二) 自分にとっての他者の死は、自分の持ち物を紛失したのと同じただの消失であり、本当の意味の死である自分の死を知る上で役に立たないので。(65字)

設問(三) ただ一人で自分の死を迎えることに恐怖を感じることが、かえって、それまで他人との関係のなかで生きていたことを証明している、ということ。(66字)

設問(四) 目の前にいる他者を自分と同じ存在として捉え、その他者の動きを真似するところから、自分の身体統制が可能になる、ということ。(60字)

設問(五) 目の前の他者と自分自身を同じ存在だと捉えることを通じて、人間は「私」という自意識を獲得している観点から見ると、人間は他者から孤立した存在であるという考えは、生きて自意識を持っている限り成立しないので。(100字)

設問(六) aー空疎 bー錯覚 cー模倣 dー抱擁

【解説】

では、解説を始めます。

第一〜八段落

まず、本文の全体を確認してみましょう。

本文第三段落までをまとめると、<自分自身の死は全くわからないものであり、そうであるにもかかわらず、どうして人間は死に恐怖を感じるのだろう>となります。そこから、次段落の第四段落で、死への恐怖は人間が人間であることの証明である、と続きます。人間は人間だから、死を怖がる、ということですね。

では、どうして人間だったら死を怖がるのか、という疑問が生まれるのですが、そのことについて、筆者は「消極的な面」と「積極的な面」から考察します。「消極的な面」については直後の五~八段落、「積極的な面」は九~十五段落です。そして、前者には「第三人称」が、後者には「第二人称」が関係する、となっています。このようなとても整理された本文構成になっていることを押さえておいてください。

では、第五~八段落をもう少し、詳しく読んでみましょう。

まず、第五段落で、「第三人称の死」、すなわち他人の死は、自分の死を考える上では役に立たない、と説かれます。他人の死も、身近なモノの紛失も、同じ消滅に過ぎず、自分自身の死を理解する上では役に立たない、ということです。

第六段落では、自分自身の死は、そういった未知なものであるだけでなく、全く他者から孤立したものであることが強調されます。なぜなら、他者の死は、前述のように自分自身の死を考える上で役に立たず、同様に他者からも「私」の死は全く未知なものなのであり、「死」において全く他人と関わる余地はないのですから。第七段落は第六段落の趣旨の確認ですね。

第八段落では、そのような全く他人から孤立した自分自身の死を恐怖するのは、人間がそれまで他の人々とのつながりの中で、すなわち人の間で、人間として生きてきたからだ、と述べられます。ずっと人の間で生きてきたからこそ、つまり人間だからこそ、人とのつながりを断ち切られ、ただ一人で引き受けなければならない自分自身の死を恐怖する、というわけです。これで、自分自身の死を恐怖するからこそ人間であることが証明されたことになります。

なお、この考察が「消極的」である理由は、死を恐怖することが、人間が人間であること、つまり人の間で生きていること、を「逆説的」に導いているからだ、と本文では述べられています。ただ、「逆説的」であることが「消極的」、という理屈がわかりづらい人もいると思いますので、その人は、「逆説的」な証明は「間接的」な証明であると考えると、「消極的」と評価される理由がわかりやすくなるかも知れません。

直接的ではなく間接的な証明になっているから「消極的」というわけです。一人であることを怖がるということは、それまではみんなで生きていたことになるはずだ、という理屈における、一人であることを怖がる、ということは、それまでみんなでいたこと、つまり人の間で生きてきたこと、を推測させるものであっても、直接、人が人の間で生きていたことを証明するものではありませんよね。

ここまでで、第一~八段落を読みました。

設問(一)

さて、第八段落までに、漢字を除いて傍線が三箇所引かれています。それぞれ設問の(一)(二)(三)に対応しています。本文解説をいったん中断して、設問(一)(二)(三)の解答解説をしていきましょう。解答作成の材料的にはここまで読めば十分です。もちろん、実際の解答作成においては、本文全体を通して何度か読み、傍線部の本文全体における位置づけを掴んでからの解答作成ということになりますよ。そうしないと解答作成の材料はここまでで十分だということがわかりませんから。

設問(一)は、「「第一人称の死、つねに未来形でしかありえないもの」とあるが、どういうことか説明せよ。」とあります。

「どういうことか説明せよ」と問うている以上、その傍線部にわかりにくい表現があるからなのですが、とりあえず、わかりにくい表現としては「第一人称の死」「未来形」ぐらいのものでしょう。これらを説明すると、次のような解答になるでしょうか。

自分自身の死は、つねに将来やって来るものでしかありえない、ということ。(35字)

これでわかりやすくなりましたが、字数が全く足りません。本設問の解答枠は13.5センチ×2行となっており、だいたい60字程度です。それに、これだけでは東大の問題としては簡単すぎると思いませんか。考えすぎも困ったものですが、これではいくらなんでも表面的です。

出題者が問題をつくるとき、そこには必ず出題意図というものがあります。東大の場合、ただの傍線部問題といっても、その傍線部を説明させることによって、その傍線部までの問題文の理解や、それ以降の展開における傍線部の役割を確認するといった、深い読みが問われているのが一般的です。

丁寧に確認していきましょう。この傍線部の主題は「第一人称の死」です。「第一人称の死」について、第五段落までは何と述べられていたのでしょうか。直接「第一人称の死」という言葉が使われている文を探すと、第一段落の一・二文目、第二段落の八・九文目、さらに、「自分の前に立ちはだかる未知の深淵としての死」「自分の死」といった「第一人称の死」の同義語も許容するなら、第五段落の四・五文目もそうです。それらをよく読んでみてください。

どうですか、傍線部とのつながりが見えてきたでしょうか。これらをつなぐ糸は、<第一人称の死は、完璧な未知である>ということです。それを第一段落では「第一人称の死は、決して体験されたことのない」「未知のなにものか」「論理的に知りえない」と述べています。それぞれが、順に、過去・未来・現在に対応しています。過去に体験されておらず、現在において論理的に知ることもできない、未知のなにものか、であるから、完璧な未知、であり、それを傍線部では「つねに未来形」と表現しているのです。

これで、傍線部の「第一人称の死、つねに未来形でしかありえないもの」を説明する材料は出尽くしました。実は、説明を要すべき重要な表現は「つねに」だったのです。それによって、この傍線部が第五段落までのまとめ的な役割をもった表現であることを読み取らせよう、というのが出題意図だったのではないか、と思われます。

設問(一)解答例 自分自身の死は決して体験されたことはなく、また論理的に想像することさえできず、将来体験してわかるしかないものである、ということ。(64字)

設問(二)

では、設問(二)に移りましょう。

設問(二)は、「「陳腐だった第三人称の死」とあるが、なぜ「陳腐」なのか、説明せよ。」とあります。

設問(一)では「第一人称の死」が主題でしたが、設問(二)では「第三人称の死」が主題になっています。ということは、設問(一)では「第一人称の死」がどのようなものか明らかにすることが出題意図だったと思われるのに対し、設問(二)は「第三人称の死」がどのようなものか明らかにさせることが出題意図だったと思われます。「第三人称の死」は「陳腐」なものなのだけれど、では、なぜ「陳腐」なのか、を考えさせることによって、それを明らかにさせようとしているわけです。

まず、「陳腐」の意味を辞書で調べると、「ありふれている」「つまらない」「古臭い」の三点セットで説明しているものが多いようです。「古臭い」は文脈に合いませんので、前二者で考えるとよいでしょう。「第三人称の死」、つまり、他者の死、は、ありふれてつまらないものなのだけれど、なぜ、ありふれてつまらないのか、という設問になります。 この解答については、「第三人称の死」についてしっかり書かれているのが、本文全体を通して第五段落しか書いてありませんので、ここを丁寧に読んで、まとめることになります。設問に答える形で、第五段落をまとめなおしましょう。

設問(二)解答例 自分にとっての他者の死は、自分の持ち物を紛失したのと同じただの消失であり、本当の意味の死である自分の死を知る上で役に立たないので。(65字)

<他者の死は、役に立たないので>、が解答の骨格です。ただ、それでは何の役に立たないのかあいまいですので、<他者の死は、自分の死を知る上で役に立たないので>、となります。そして、そのままだと、「他人の死を目にすることで自分の死についても想像できるのではないか」、という常識的反論が出てくるでしょうから、他人の死と持ち物の紛失を同じレベルで捉えさせる視点を持ち込むことで、役に立たない、ことについての説得力を持たせるわけです。

なお、あまり大きなポイントではないですが、他者の死と自分自身の死の違いを明確にするため、字数に余裕もあるので、自分自身の死を「本当の死」という言葉で修飾し、他者の死、との違いを強調しています。

ところで、本文の読みを深めるためには、実は、この設問(二)で読み取った内容は、「第一人称の死」の絶対孤立性を支える重要な内容であることに注意しておきましょう。

設問(三)

次は設問(三)です。

設問(三)は、「「この逆説性」とあるが、どういうことか、説明せよ。」、とあります。これは、よく東大にある、指示語を二回遡って押さえて、まとめるパターンの問題です。「この逆説性」とありますが、それは直前の文を指しています。そして、その直前の文においても「このこと」とあり、それは、やはり、その直前の文を指しています。よって、傍線部の直前の二文をまとめ、「逆説」のニュアンスを反映させればそれで解答になります。

設問(三)解答例 ただ一人で自分の死を迎えることに恐怖を感じることが、かえって、それまで他人との関係のなかで生きていたことを証明している、ということ。(66字)

第九〜十一段落

さて、では第九段落から、本文の読みを再開します。

第九段落に、「このような死への恐怖は、積極的な意味でも、人の人間たることの明証の一つたりうる」とあるように、積極的な面についてです。もっとも、ここでの「積極的」という言葉については注意が必要です。本文の後半において、「積極的」に、人間が人間があること、つまり、人は他者との関係性において生きていることが説明されてはいるものの、それは「死への恐怖」が「積極的」に、人間が人間であることを導いているわけではないからです。

「消極的」にという言葉と同じ文脈で「積極的」にという言葉を捉え、本文を理解しようとすると、混乱してしまうと思います。

さて、第十・十一段落では、西欧近代的発想に立った人間の弧絶性は表層的なものだと述べられています。その孤絶性は、頭の中だけで考えられたものであり、実際はそうではない、ということです。では、実際はどうなかというと、当然、人と人はつながっているのだ、ということですね。どうつながっているのか、それが第十二~第十四段落で述べられます。

第十二〜十四(最終)段落

第十二~十四段落で、人間が人間であること、人の間で生きてきたこと、が「第二人称」を介して「積極的」に証明されます。第十二段落では肉体面から、第十三段落では精神面からです。第十四段落は、第十三段落での精神面が自意識獲得のときのみに限定されてしまいますので、その後においても、精神的自意識は「われわれ」を志向しつつ成立していることをしめすためです。そして、最後の第十五段落で、そのように、生ある限り、人間は人間として、人の間で生きているからこそ、自分自身の死のみが人間の究極的な弧絶性を照らし出す、と述べられて本文は終わります。

読みの最後に全体を300字程度にまとめておきますと、以下の通りです。

第一人称の死は完璧な未知である。第三人称の死さえ手がかりとなるものではなく、その意味で、第一人称の死は他者から完全に孤立したものでもある。そのような他者から孤立した第一人称の死を恐怖することは、人間は生において、人の間で、人間として生きてきたことを、逆説的に、つまり消極的に明らかにする。そして人間が、人間であることは、積極的な意味でも明らかである。人間は、目の前の他者、すなわち第二人称との一体化を通じ、「私」という自意識を持つようになる存在であるからだ。人間は、生にある限り、人の間で、人間として生きているのであり、ただ第一人称の死のみが、人間の孤立したさまを明らかにするものなのである。

設問(四)

さて、本文の読みが終わったので、設問(四)です。

設問(四)は、「「『われわれ』が『私』を造りあげていた」とあるが、どういうことか、説明せよ。」、とあります。

一語一語に難しいものはありません。しかし、「われわれ」と「私」に鍵括弧がついていますよね。つまり、その「われわれ」と「私」には、特別な意味が込められている、ということです。ですから、文脈に即し、その「われわれ」「私」に込められている特別な意味を明らかにすることによって、傍線部を説明する、ということが基本的な戦略です。設問(一)で用いた考え方と同じですね。

ただ、もちろん、その基本的戦略に沿って本文を読むことで解答できる人もいると思うのですが、意外に、いきなり文脈から「われわれ」「私」に相当するものを探す、というのは、この場合、難しいのではないかと思います。上記の視点も、もちろん、有効ではあるのですが、ここでは、「『われわれ』が『私』を造りあげていた」という抽象的な表現全体を、その直前の「蹴上がり」という具体例を通して理解し、そして説明するというのが、よりやりやすい方法だと思います。そして、しっかり読めばわかるのですが、実は、その「蹴上がり」の具体例も、その前の抽象的表現に導かれています。抽象→具体→抽象のサンドイッチ構造です。そういう読み方をしてこそ、「われわれ」は何か、「私」は何か、という視点も生きてくるタイプの設問です。

前置きが長くなりましたが、抽象→具体→抽象、に当たる個所をそれぞれ確認しましょう。最初の<抽象>は、第十二段落の三文目、「~自らの身体的支配はつねに他者のモホウによって獲得される」、次の<具体>は、六文目、「~私は、それまでに演じた人びとと全く同じことをして~鉄棒の上に上ってしまった」、最後の<抽象>が、傍線部の「『われわれ』が『私』を造りあげていた」です。どうでしょう、つながりは見えましたか。

「われわれ」は「他者のモホウ」、「私は、それまでに演じた人びとと全く同じことをし」に相当します。また、「私」は「自らの身体的支配」、「鉄棒の上に上ってしまった」に相当します。つまり、他者を真似する、ということは、目の前の他者を自分と同じ存在として捉えること、つまり「われわれ」ということになるのです。そして、そのことによって、鉄棒の上に上った、身体的統制ができた、身体的な意味での自意識、つまり「私」が成立したのです。では、解答にまとめましょう。

設問(四)解答例 目の前にいる他者を自分と同じ存在として捉え、その他者の動きを真似するところから、自分の身体統制が可能になる、ということ。(60字)

設問(五)

では、いよいよ設問(五)です。

「「それゆえにこそ、第一人称が迎えんとする死こそ、人間にとって極限の弧絶性、仮借なき絶望の弧在を照射する唯一のものなのかもしれない」とあるが、なぜそう言えるのか。一〇〇字以上一二〇字以内で説明せよ。」とあります。

まず、この文自体が受験生には少しわかりにくいので、簡単な表現にしてみましょう。<だから、自分自身の死だけが、人間が本当に一人きりの存在であることを明らかにする唯一のものなのだ>というところでしょうか。

理由を問われているので、「それゆえにこそ」と傍線部の頭にある接続詞に着目するのは当然です。傍線部の前にある文が理由になっています。

直前の文は、「個我の弧絶性は、少なくとも生にある限り、むしろ、抽象的構成に近いものと言うべきである」です。これも、傍線部同様、少しわかりにくいので、簡単な表現にしてみます。<人間が一人きりの存在であることは、生きている以上、むしろ、頭の中で考えているだけの理屈に過ぎず、現実にはそんなことはない>となるでしょう。

そしてこの文は、「この観点から見るとき」という語句を頭に頂いているのであり、「この観点」とは、第十二~十四段落で述べられる、「第二人称」を介して、人間はつながりあって生きていることで初めて「私」たりえる、という観点を指しています。

以上をまとめましょう。解答作成手順としては指示語を遡っていく設問(三)のパターンになります。

解答例1 目の前の他者と自分自身を同じ存在だと捉えることを通じて、人間は「私」という自意識を獲得している観点から見ると、人間は他者から孤立した存在であるという考えは、生きて自意識を持っている限り成立しないので。(100字)

解答例2 目の前の他者と自分自身を同じ存在だと捉えることを通じて、人間は「私」という自意識を獲得している観点から見ると、人間は他者から孤立した存在であるという考えは、生きて自意識を持っている以上成立せず、自分自身の死のみが人間を一人にするものなので。(120字)

解答例を二つ提示しています。なぜ、二つ提示しているのか、と思われることでしょう。それは基本的には、指定字数が100字以上120字以内という、幅のある字数であることによります。

「100字以上」という指定がある以上、大学側は100字でも書くことが出来る解答を用意しているのだと思います。詰めて詰めて、120字でやっと書き切れる、というのではないはずです。ですから、まずは、100字ちょっとで解答を作成しました。基本的には、これを解答として提示します。

「120字以内」を意識した解答には、傍線部の趣旨を盛り込んでいます。前述の通り、傍線部自体がわかりにくいので、ここも明確にしたほうがわかりやすいだろうという判断です。もっとも、生徒に聞かれたときはこちらの解答をお勧めするかなあ。万一、そこに1点でも配点されていたら、と心配してしまいます。

以上

(2012.9.23.旧HP一部改定)

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