古典の可能性ーー原典で古典を学ぶ意味

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

こんにちは。

平成27年11月28日の土曜日、安田女子大学にて名古屋大学教授の塩村耕先生の「文学部の文明史的任務」という講演会がありました。特に存じている先生というわけではないのですが、私のいる高校に案内が来て、関心のあるタイトルだったので参加しました。

初めて訪れる安田女子大学キャンパスには新しい建物が多く、とてもきれいなので驚きました。私と同年輩ぐらいの方でしょうか、案内をしてくれた方と少しだけ話したのですが、安田の卒業生だそうで、当時の建物はもうありません、とのことでした。

前置きが長くなりましたが、ここではその講演会のレポートをしようというのではありません。その講演会で印象に残ったこと、及びそこから考えたことを記しておきたいと思います。

私が印象に残ったのは、塩村先生が文学部の任務は古人との対話であることを強調されていたことです。現代のことばかりが問題になっているが、古人との対話なくして未来のことを考えることは「絶対に」できない、とも。「絶対に」のところはスライドでも赤字でした。

もっとも、講演会自体は「芭蕉さん」や「西鶴」「雨森芳洲」の「ふみ」について先生が楽しそうに語ることが主で、主義主張が中心のものではありません。私などは講演会の終わり近くまで、「文学部の文明史的任務」についての話はいつ出て来るんだろう、と僭越にも訝っていたほどです。

しかし、主義主張が前に出ての講演ではなく、「雨森芳洲」の「ふみ」を数多く手に入れた先生が、もったいないのでこれは正月にゆっくり見ます、と嬉しそうに言われていた姿があったからこそ、講演会の締めにあたり、古人との対話を文学部の文明史的任務と結びつけて話される言葉が、かえって力強かったのだと思います。

それが「文学部の任務」だということは、文学部の学生が古人との対話を行うことが世のため人のためになるということだと思います。専門的に古人との対話をしたことがある人を育てることが社会にとって意味がある、ということになるのだと思います。

理系の学生が実験や研究に打ち込むのと同様に、文系の学生が古典を読む姿が世の中のためになるというイメージがどうしても私にはそのとき持てませんでした。古典を読むことは過去の人々との対話であり、過去の人々とつながることであるというのはわかります。しかし、なぜそれが「任務」たりえるのか。

しかし、過去の人々との対話だからそれが意味あることなんだ、いちいちそんなこと聞くんじゃない、とでも言いたいような先生の言い方、その力強さが気になります。もちろん、塩村先生が、いちいちそんなこと聞くな、とおっしゃっているわけではありません。私がそのように受け取ったということです。

過去との対話が現代にとっても意味がある、という考え方それ自体は、その言葉の抽象性もあいまって素直に受け取ることができます。しかし、高校で古典を教えている私にとって、だからといって、それがそのまま素直に今の古典の授業を肯定する根拠にはなりません。もちろん、それは私の授業の問題であるという側面は抜きにできないとしても。

しかし、その先生の力強さが妙に気になって、帰り道道なぜだろうと考えていると、先生が楽しそうに「ふみ」について話していた姿が目に浮かびます。すると、私も古文を若干読んでいるせいか、年を取ってきたせいか、最近「西鶴」について多少考えていたせいか、古典を読み、古人と対話することを通じ、彼らを近しく感じること、そういう人が増えることは確かに意味があることなのかも知れない、と少し思うようになりました。

そう感じたのは、原発についての印象の変化です。いきなり政治的な話題で申し訳ないのですが、これを避けては話が続かないので続けます。塩村先生は、古人との対話がなされているような社会で原発が進められるようなことはありえない、という趣旨の発言をされていて、私は、なぜそうなるのだろう、と疑問を感じていました。なぜ古人との対話が原発反対に結びつくのか、と。

しかし、先生が「雨森芳洲」の「ふみ」を読むことを正月の楽しみにしておくということを嬉々として話されている様子を思い出していると、数百年の単位での人間の命というか、その生命としてのつながりが意識されるようになり、そうすると原発の放射線が人間に与える変化、また死というものが、何かそれとは異質な、気持ち悪いものに感じられるような変化がありました。

今述べた変化、死、というものについて、何らかの根拠を挙げることはできません。これまで目にし耳にした印象から述べているに過ぎません。しかし、これまで大昔からずっと続いてきた、誰かが死に、誰かが生まれ、という人間の生と死の歴史とは異なった変化を与えるもののような気がするようになりました。

もちろん、石油による火力発電にしても、それがなければ死なないでいいような人を死なせ、人間に対して変化を与えているのでしょう。その恐ろしさに対する認識が私に不足しているのかも知れません。それを知ったら考えをまた改めなければなければならないのかも知れません。しかし、これまで原発について見聞きし、自分なりに考える中で感じていたこととは大きな違いが、「古典は古人との対話である」ということを強く意識した中で生じているのも、確かなことです。

人間は歴史的な存在であると思います。言葉を話していることからも、それは明らかなことだと思います。過去と切り離された「人間」としての存在はありえません。「人間」の進むべき道も、過去を無視して進められるものではないでしょう。もちろん、では、そのような過去とはどのようなものか、それは様々だと思います。保護者の方々の言葉や振る舞い、祖先の遺品、生まれ育った場所の街並み、尽くせるものではありません。

しかし、そのような私たちを私たちにさせている過去の一つとして、過去の人々の言葉としての古典があり、今に生きている誰かがそれを受け継いでいく必要があるのならば、それを「文学部の任務」として受け継いでいくことはまさに必要なことなのだと思います。

中高校での古典教育を考える場合、このような古典の可能性についても、忘れることはできないと思います。

スポンサーリンク
Simplicity2レクタングル大
Simplicity2レクタングル大

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク
Simplicity2レクタングル大