こんにちは。
今、新しい国語教育が求められていると思います。
私にとっての新しい国語教育のイメージを整理するために、また、これを読む誰かの役に立つことを期待して、以下まとめます。
人は漠然とした不安、不満を感じることがあります。何かうまくいかない、と焦燥感を覚えることもあります。
そんなときに、その不安、不満、焦燥感に形を与え、できることならはっきりとした言葉にすることを可能にさせるものが国語教育です。
繊細な言語感覚が必要です。単なる、怒り、悲しみ、といった決まり切った言葉では捉えきれないことも多いと思います。また、何に対してそのような感情を抱いているのか、それもはっきりと言葉にしたいところです。
その曖昧な感情を理論で語ることができることもあると思います。理論で片付くならばそれもよいでしょう。それは一つの国語教育です。しかし、理論は時に乱暴すぎて、かえって害になることがありますし、また現実に追いついていなくて役に立たないこともあります。それにそのような理論はどちらかといえば大学向きの内容な気がします。
そういった時には、文学が役に立つはずです。役にたつ、という言葉が不適切ならば、そのようなときに文学に楽しみを、または目を離せないような引力を感じるはずです。また、文学のように即効性はありませんが、古典はもっと深いところで影響を与えてくれると思います。そこには時代を超えた、または、今の時代がそれを古典として選ばせている深い必然性があるはずです。
もし、その不安が、不満が、焦燥感が、言葉で形になったらどっぷりそれに浸るのもいいかも知れません。浸りきることができたら、そこから抜け出すきっかけになると思います。どうしたらそれを解消できるか、それを考えるのもいいと思います。どちらも、国語教育が促すことができるものだと思います。
問題が明らかになったら、それをしっかり分析することも国語教育です。問題をしっかり分析することができれば、自然と対策がわかることもあるでしょうし、わからなくても、問題をしっかり分析することによって対策が立てやすくなるはずです。それも国語教育です。もちろん、どんな対策があるかいろいろと考えを巡らすことも国語教育になるでしょう。
問題の対策の見当がつくと、それを実行しなくてはなりません。一人だけで完結することはなかなか少ないと思います。他人に相談し、他人を巻き込み、ともに問題に向かうこと、それを可能にすることも国語教育です。
凝り固まった考えを明るみに引き出し、新たな次元に気持ちを引き上げるために、ディベートやディスカッションも有効だと思います。それも、もちろんこれからの国語教育ですね。
勇気を教えることは可能でしょうか。それは難しい気がします。しかし、そのきっかけ、最初の一歩を踏み出す手がかり、それは可能なような気がします。
いずれにしても、教師に求められることはとても多く、かつ深くなりそうです。正直に言うならば、自分のことを棚に上げないと、教えられないような気がします。生徒とともに学ぶ、という言葉は確かに美しいのですが、それを安易に使ってはいけないでしょう。
生徒に求めることと同じように、答えがない中で、走りながら、考え続けなければならないのかも知れません。