乱世の知ーー生きている間に大きく価値観が変わる時代にどのような教育を行うのか

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

こんにちは。

教師として生徒に何を語ればよいのか。よく考えます。

進学塾の講師をしているときとは違う悩みです。進学塾では受験を前提とした生徒との結びつきですから、受験の合格へ向かって生徒の成績が上がるようなことを話すことが、少なくとも私にとっては前提でした。

しかし、学校の教師となると違ってきます。私は今、いわゆる進学校の教師ですが、それでもやはり塾のときとは違ってきます。学校の教師となると「価値」を説くようになります。どんな生き方がいいのか、どう生きるべきなのか。そういった「価値」を説くことが学校の教師と塾の講師の大きな違いです。

果たして「価値」を説くことが、学校の教師として普遍的に正しいことなのかどうか、本音で言えばわかりません。私は国語の教師ですので、国語の技術屋として指導すればいいという考えもあると思います。そもそも国語の技術屋に徹することでさえ、簡単なことではありません。「価値」以前に、国語についての技術と、それを教育することの技術の厳しさについて思いを馳せれば、「価値」など口に出せません。

しかし、生きていく上で、「価値」はどうしても必要になってきます。そして、その「価値」を与えてくれる場所として、今の日本では学校という存在は大きな役割を持っていると思います。諸外国の中には、家庭や宗教が大きな役割を果たし、学校は大した意味を持っていない国もあると思いますが、日本ではそうではありません。戦前のように特定の「価値」を刷り込む場ではなくても、「価値」を与える場にはなっているように思えてなりません。

生きていく上では、常に判断が必要です。これはよいことか、悪いことか。自分にとって大切なことか、そうでないことか。そして、合理性だけでは判断はできません。合理性は特定の方向づけ、すなわち「価値」抜きでは全く意味を持ちません。何が「合理」なのか、わからなくなるからです。

しかし、今や「価値」は目まぐるしく変わります。私が幼いころ、このように生きていくのがよい、とされていたことでさえ、現在、同じではありません。戦前と戦後のような大きな価値の変化が、しかも、それとわからず、気づいたら身の回りで起こっています。そして、知らないうちにこんな変化が起こっていた、というだけでなく、変化が起きたことさえずっと気づかずに違和感だけを抱え、しかも、その変化は自分の中で起こっていたりもしています。

「乱世」という、大げさな言葉が思い浮かびます。現在は命を奪い合うような時代ではありません。食うか食われるかで四方八方に気を配らなくてはいけないことなどありません。しかし、そのあまりの変化の激しさにおいて、精神的な意味での「乱世」です。自分の中に抱いている「価値」は決して世の中から独立したものなどはありえないのですから、四方八方に気を配っていないと、自分の中の「価値」が、つまり生きるための基準が壊れます。

「乱世の知」、そういったものが必要になってきていると思います。私はそういうものを説きたいと思っています。そして、それを教科としての国語のなかで実践したい。それは、可能な限り普遍的なものに依拠しつつ、教える私の生きる力を鼓舞し、生徒にとっては、この「乱世」のなかで、みずからを賭ける「価値」を自覚的に実践する手がかりとなるものであってほしいと思っています。

スポンサーリンク
Simplicity2レクタングル大
Simplicity2レクタングル大

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク
Simplicity2レクタングル大