IBのワークショップでJapanese Aの研修を受けました。
私の知っている高校一条校での国語教育との比較を以下まとめてみます。違いのまとめ、ですね。
授業がそのまま評価に直結している
この標題を見ると、「だから日本の教育は窮屈だよね」と思われるかも知れません。そしてその場合は、評価に直結しているのは日本の国語教育だと思われているのでしょう。しかし、それは、逆です。評価に直結しているのはIBのJapanese Aの方です。
IBでは、提出課題や筆記試験、口述試験など様々な評価があり、授業自体はその最終評価から逆算される形で組み立てられています。明らかに、日本での授業の国語教育より、評価を意識したものでした。
僕はこれまで、IBの授業は確かに生徒にとって、より興味を掻き立てられるものだろうし、能動的になれるだろうけど、遊びにならないか、本当に生徒を鍛えられるのか、という疑念を持っていましたが、むしろ日本の教育の方が遊びなのかも知れません。
とにかく書かせる(表現させる)
これはIBについて関心のある方なら、およそ見当がつくでしょうし、実際その通りです。筆記試験にいわゆるマークセンス問題はありませんし、レポートはマークセンスになりようがないですし、口述試験ももちろんですね。エクステンドエッセイと呼ばれる卒論に相当するものも、書く、わけです。
日本のマークセンス問題は、もちろん作り方にもよるのですが、特に長い選択肢問題に顕著なように、間違い探しの能力育成が主になってしまうのじゃないか、と思われるものが多く、個人的に大いに疑問を持っているので、とにかく書く、という姿勢には賛同します。
メタな視点をとる
これも2で挙げたことと同様、IBについてある程度関心を持っている方ならご存知なことと思うのですが、今回新たに気づいた点があるので挙げておきます。
まず、前提として、特定の文学作品についてエッセイ(感想文のようなものです。違いは、書くことについて「根拠」が常に問われる、ということでしょう)がよく求められるという点で、メタな視点がIBで要求されることは当然です。しかし、今回私が、メタな視点として特に強調したいことはそれではなく、知識に対する姿勢の違いです。
この点については、今回の研修(IBではワークショップという)で説明されたわけではありません。そういう意味では私の感じ方かも知れません。しかし、私にとってこの違いは意外に大きいものです。
私の印象として、日本での授業の中での知識とは、ある特定の作品に対する、普遍で不動の知識です。読者の存在を抜きにしても、そこに実体としてあるものです。それに対して、IBでは、知識はその作品を分析し、理解するための手段です。あくまで、作品に対してメタな視点を取るためのものです。
知識に対してどのような視点をとるのか、というものは学習意欲に大きな影響を与えると思います。自らの視点を問題にする態度は、学習意欲を高めるように思います。
評価が多面的である
日本の高校の評価方法は、基本的に筆記の定期試験一発型ではないでしょうか。もちろん提出物なども関係あるにしても、そのウエイトは低い。そういう意味では現行の大学入試に似ています。
それに対してIBの評価方法は多面的です。レポートもありますし、筆記試験もありますし、教師との質疑を録音して提出する口述試験もあります。レポートには授業でのディスカッションを踏まえた内容も要求されますので、当然授業でのディスカッションも経験していなくてはなりません。一つの能力が幅を利かせすぎない分、バランスの取れた人間を育てられる印象です。
古典文法はやらない(2017.11.22追記)
IBでは古典文法を学習しません。だからといって、古典を学習しないわけではありません。では、どうするのか。現代語訳を使って学習します。例えば、徒然草や枕草子を学習する場合、原典と一緒に現代語訳も用意して学習します。それで十分、学べている印象です。というか、個人的には、いきなり初読の原典をポンと見せられて現代語訳できることを高校生に要求する現在の日本の国語教育の方がおかしいように思います。ただ、教師はある程度原典を読める能力が必要だと思います。その方が、例え現代語訳は横にあるにしても、生徒に対し的確なアドバイスができるはずです。
以上、5点、私の感じた、IBのJapanese Aと「国語」の違いをまとめました。
IB教育に関心のある方や今の国語教育に新しい切り口を求めている方の参考になれば幸いです。