2016年(平成28年)センター国語・評論『キャラ化する/される子どもたち』(上)問1〜3

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2016年度(平成28年度)のセンター試験評論問題の解説をしていきます。この記事では問1〜3を扱います。

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問1 (漢字問題です。本文だけでなく選択肢の漢字もわかる必要があります。)

(ア)取りツクロ

  • ①収益のゼンゾウを期待する
  • ②事件のゼンヨウを解明する
  • ③建物のエイゼン係を任命する
  • ④学生ゼンとしたよそおい
  • ゼン問答のようなやりとり

本文の漢字は「取りう」です。

選択肢の漢字は以下の通りです。

  • ③営

正解は③です。

(イ)一貫した文脈へとそれらをシュウソクさせ

  • ①度重なるハンソクによる退場
  • ②健康をソクシンする環境整備
  • ③ヘイソクした空気の打破
  • ④両者イッショクソクハツの状態
  • ソクバクから逃れる手段

本文の漢字は「収」です。

選択肢の漢字は以下の通りです。

  • ①反
  • ③閉
  • ④一触

正解は⑤です。

(ウ)生活をカエリ

  • イか過失かという争点
  • シキゆかしき伝統行事
  • ③一同をブする言葉
  • ドクで華麗な生涯
  • リョの末の優しい言葉

本文の漢字は「生活をみ」です。

選択肢の漢字は以下の通りです。

正解は⑤です。

(エ)破綻をカイ

  • ①海外のタイカイに出場する
  • ②タイカイに飛び込み泳ぐ
  • ③方針を一八〇度テンカイする
  • ④天使がゲカイに舞い降りる
  • ⑤個人の考えをカイチンする

本文の漢字は「破綻を避」です。

選択肢の漢字は以下の通りです。

  • ①大
  • ②大
  • ③転
  • ④下

正解は③です。

(オ)複雑さをシュクゲン

  • ①前途をシュクして乾杯する
  • シュクシュクと仕事を進めた
  • シュクテキを倒す日が来た
  • ④紳士シュクジョが集う
  • ⑤キンシュク財政を守る

本文の漢字は「複雑さを減」です。

選択肢の漢字は以下の通りです。

  • 宿
  • ⑤緊

正解は⑤です。

問2 傍線部A「リカちゃんの捉えられ方が変容している」とはどういうことか

傍線部A「リカちゃんの捉えられ方が変容している」が具体的にはどういうことを言っているのか、問う設問です。

本文解説

「変容」とか「変化」とかあれば、何から何に変化したのか、という変化前と変化後の二つを必ず押さえてください。変化前については第一段落に「かつてのリカちゃんは」とありますね、そして変化後については第二段落に「平成に入ってからのリカちゃんは」とありますね。それぞれの内容を押さえてください。それぞれの内容を押さえるに当たり、指示語に着目してみましょう。

「指示語の指示対象は重要語」の法則を使います。指示語というのは、言わば繰り返しです。繰り返されるのは重要だからです。つまり、重要な言葉を押さえるには、指示語に着目すればいいんですね。

その指示語というのは、「平成に入ってからのリカちゃんは」の後にある、「その物語の枠組み」です。指示対象は前段にある「設定されたその物語の枠組み」ですね。

つまり、「かつてのリカちゃん」は「設定されたその物語の枠組のなかで」生きている存在だったんです。それに対して「平成に入ってからのリカちゃん」は「(設定された)その物語の枠組から徐々に解放され(た)」「どんな物語にも転用可能な」ものになったんです。特定の物語という「枠組」から「解放」されちゃったんですね。以上のように「かつてのリカちゃん」から「平成に入ってからのリカちゃん」への「変容」を理解できれば、あとは選択肢の吟味です。

選択肢の吟味

まず選択肢について、「かつてのリカちゃん」の説明として間違っているところ、「平成に入ってからのリカちゃん」の説明として間違っているところに取り消し線を付けた上で、掲示します。そして解説を加えます。

  1. かつては、憧れの生活を具現化するキャラクターだったリカちゃんが、設定された枠組から解放され、その場その場の物語に応じた役割を担うものへと変わっているということ。
  2. 発売当初は、特定の物語を持っていたリカちゃんが、多くの子どもたちに「ごっこ遊び」に使われることで、世代ごとに異なる物語空間をつくるものへと変わっているということ。
  3. 一九六七年以来、多くの子どもたちに親しまれたリカちゃんが、平成になってからは人気のある遊び道具としての意味を逸脱して、国民的アイドルといえるものへと変わっているということ。
  4. 以前は、子どもたちが憧れる典型的な物語の主人公であったリカちゃんが、それまでの枠組に縛られず、より身近な生活スタイルを感じさせるものへと変わっているということ。
  5. もともとは、着せ替え人形として開発されたリカちゃんが、人びとに親しまれるにつれて、自由な想像力を育むイメージ・キャラクターとして評価されるものへと変わっているということ。

どうでしょうか。全ての選択肢について選択肢の前半が「かつてのリカちゃん」の説明になっていて、選択肢の後半が「平成に入ってからのリカちゃん」の説明になっています。説明が適切かどうか判断する上では、「設定された物語の枠組」の中かどうかを問題にしている選択肢でないとダメですよ。たとえ「かつてのリカちゃん」の説明としては確かに本文に書いてあって間違ってはいなくても、「設定された物語の枠組」の中かどうかを問題していないならば、傍線部A「リカちゃんの捉えられ方が変容している」の説明としては関係ないのであり、解答としては不適切です。

以下、選択肢一つ一つについて解説を加えますね。

選択肢1が正解であり、選択肢中「憧れの生活」が「設定された物語」に相当し、選択肢中「その場その場の物語」が、「設定された物語」からの「逸脱」「解放」、に相当します。

選択肢2は不正解であり、前半の「かつてのリカちゃん」についての説明は許容されると思うのですが、後半の「平成に入ってからのリカちゃん」の説明が不適切です。「世代ごとに異なる」かどうかは本文で触れられている内容ではないですね。

選択肢3は不正解であり、これはさすがに選んではいけない選択肢かと…

選択肢4は不正解であり、前半の「かつてのリカちゃん」についての説明は許容されると思うのですが、後半の「平成に入ってからのリカちゃん」の説明が不適切です。「より身近な生活スタイルを感じさせる」かどうかは本文で触れられている内容ではないですね。

選択肢5は、「設定された物語」を軸にしての、「かつてのリカちゃん」と「平成に入ってからのリカちゃん」の対比的な捉え方が全く反映されていない以上、正解にするのは厳しいと思います。

傍論(最近のセンター現代文の傾向)

ここまで、どうでしたでしょうか。僕自身の率直な感想を述べるなら、本文読解としては簡単なものの、選択肢を選ぶ段階で間違える可能性がある、というものです。では、どうして選択肢を選ぶ段階で間違える可能性があるのでしょうか。

この2016年度の選択肢は、解答の根拠となる本文の言葉をそのまま選択肢に使うのではなく、他の言葉に言い換えているんです。しかも、本文の他のところの言葉を使っての言い換えではなく、任意の言葉を使って言い換えています。つまり、本文をしっかり読めていても、選択肢が難しくて正解できない、ということなんです。もう一度言いますね。本文をきちんと理解していたとしても、選択肢がどういうことを言っているのか理解しづらいので、簡単には正解できませんよ、ということなんです。最近はこの手の出題傾向が続いていると僕は判断しています。

問2の正解の選択肢1を使って具体的に確認してみましょう。

  1. かつては、憧れの生活を具現化するキャラクターだったリカちゃんが、設定された枠組から解放され、その場その場の物語に応じた役割を担うものへと変わっているということ。

選択肢の前半の、「憧れの生活を具現化するキャラクターだったリカちゃん」が問題です。これは「かつてのリカちゃん」の説明部分なんですが、選択肢のこの表現は、確かに具体的でわかりやすいものです。しかし、この表現が、リカちゃんが「設定されたその物語の枠組のなか」で生きていることの説明になっているということはわかりづらくないですか。

いえ、もちろん「憧れの生活を具現化する」という表現は第1段落でリカちゃんについて書いていることをまとめた表現であり、そのことにすぐに気づくことができる人にとっては難しくもなんともない設問です。しかし、この「憧れの生活を具現化する」という表現が第1段落でリカちゃんについて書いていることをまとめた表現である、ということに試験中には気づけない人がけっこう多いようなんです。「憧れの生活を具現化する」という表現そのものは本文中で使われているものではありません。

こういう出題の傾向は、ある種の人にとってはとってもラッキーな傾向ですが、ある種の人にとっては実にアンラッキーな傾向です。

この「ある種の人」のポイントは、日常的な言語運用能力、とでもいうとよいと思います。この、日常的な言語運用能力、というのは学術的な語彙ではありません。ですから、私なりにいくつか例を用いて説明すると、例えば、ある種の状況を他者にパッとわかりやすく説明する能力、難しい事柄をそれって結局こういうことでしょ、と端的に言い換える能力、こんがらがった自分の気持ちを的確な言葉で表現できる能力、というような能力です。

この日常的な言語運用能力がある人は、本文の表現が選択肢中で言い換えられていても、けっこうすぐに気づいてしまうんです。

この能力がある人にとってはこの手の出題はとてもラッキーです。本文を読み取ることは簡単ですし、選択肢の読みも、言わば「フィーリング」でできますので、すぐに正解してしまいます。(もちろん、正確には、日常的な言語運用能力、に裏打ちされた「フィーリング」ですから、単純に「フィーリング」とは言い切れないのですが。)極端な言い方をすれば、こういう人は、この手の出題については、あまり評論を読む訓練をしていなくても、何となく試験を受けて、何となく大体のところを理解して、何となく選択肢を選べば、それで正確に正解してしまいます。

それに対して、この能力がない人にとっては実にアンラッキーです。本文を理解したとしても、選択肢の読みでつまづいてしまい、結局正解できないからです。そして往々にしてこのタイプの人の場合、「国語」という教科、特に「現代文」という教科が苦手で、かと言って入試にあるので逃げるわけにもいかず、一生懸命勉強しています。そして努力の甲斐あり「評論」はある程度できるようなっているにもかかわらず(「小説」はやはり苦手なまま)、この手の出題には対応できないので、間違えてしまうというわけです。

この大切な、日常的言語運用能力、をどうやって育成すればよいのか、それについては、この記事の目的を逸脱してしまいますので、また別の機会に考えをまとめて見たいと思います。

問3 傍線部B「人びとに共通の枠組を提供していた『大きな物語』」とあるが、この場合の「人びと」と「大きな物語」の関係はどのようなものか

傍線部B「人びとに共通の枠組を提供していた『大きな物語』」の単なる説明ではなく、その中の「人びと」と「大きな物語」がどのような関係にあるのか、を問う設問です。

本文解説

傍線部B「人びとに共通の枠組を提供していた『大きな物語』」は、その直後に「失われ」とあることからもわかるように、「失われ」た、昔のことについて述べているところです。ですから、傍線部Bの「人びと」とは、平成より前の、昔の人びとです。同様に、「大きな物語」とは問2で見たように、平成以前の人々が生きていた、特定の「設定された物語」です。

とすると、そのような昔の「人びと」と、設定された「大きな物語」との「関係」は、一体どのようなものなのでしょうか。一体、「関係はどのようなものか」という問いかけをすることによって、この設問はどのようなことが聞きたいのでしょうか。それがわかるためには、実は問3においては先に選択肢を見る方が有効です。

選択肢の吟味

では、選択肢を掲示します。どの選択肢も冒頭から途中まで共通していますので、その部分に対する吟味は不要です。よって、その部分は目立たないように灰色にして掲示します。後半の青字部分に着目して、選択肢の適否を判断してください。ただ、後半の青字部分の適否を検討するために、青字部分は何について書いてあるのかを確認したいので、灰色部分の一部に赤で下線を引いています。

  1. 「人びと」は、社会の中の価値基準を支える「大きな物語」を共有することで、自己の外面的な要素と内面的な要素を比べながら、臨機応変に複数の人格のイメージを使い分けようとしていた。
  2. 「人びと」は、社会の中の価値基準を支える「大きな物語」を共有することで、自己の外面的な要素と内面的な要素との隔たりに悩みながらも、矛盾のない人格のイメージを追求していた。
  3. 「人びと」は、社会の中の価値基準を支える「大きな物語」を共有することで、自己の外面的な要素と内面的な要素とのずれを意識しながらも、社会的に自立した人格のイメージを手に入れようとしていた。
  4. 「人びと」は、社会の中の価値基準を支える「大きな物語」を共有することで、自己の外面的な要素と内面的な要素とを重ねあわせながら、生まれもった人格のイメージを守ろうとしていた。
  5. 「人びと」は、社会の中の価値基準を支える「大きな物語」を共有することで、自己の外面的な要素と内面的な要素とを合致させながら、個別的で偽りのない人格のイメージを形成しようとしていた。

灰色部分の最後の「自己の外面的な要素と内面的な要素には赤で下線を引いて強調しました。これはどういうことかいうと、問3の選択肢全てにおいて「自己の外面的な要素」と「内面的な要素」をどう扱っていたかが問題になっている、ということです。つまり、この問3では、「関係はどのようなものか」というまだるこしい問いかけをすることによって、「人びと」が設定された「大きな物語」の中で生きていたとき、「人びと」は自己の外面的な要素と内面的な要素をどのように扱っていたのか、を問おうとしていた、ということです。もちろん、青字部分の適否を判断する当たっては、本文に戻って、「設定された物語」が有効だった時代、において「人びと」が「自己の外面的な要素」と「内面的な要素」とをどう扱っていたのかを確認すればよいのです。

該当する本文は第五段落最後の以下のところです。

「(外面的な要素も内面的な要素も)揺らぎをはらみながらも一貫した文脈へとそれら(=外面な要素と内面的な要素)をシュウソクさせ」

つまり、「大きな物語」すなわち、問2で言えば「設定された物語」が有効だった時代において、「人びと」は「自己の外面的な要素」と「内面的な要素」を、(雑な言い方をすれば)一つのものにはなかなかならないけれど、一つにしていこうとしていたというわけです。

では、問3の選択肢を全てもう一度掲示した上で、上記の観点から間違っているところには取り消し線を付けてみましょう。

  1. 「人びと」は、社会の中の価値基準を支える「大きな物語」を共有することで、自己の外面的な要素と内面的な要素比べながら臨機応変に複数の人格のイメージを使い分けようとしていた。
  2. 「人びと」は、社会の中の価値基準を支える「大きな物語」を共有することで、自己の外面的な要素と内面的な要素との隔たりに悩みながらも、矛盾のない人格のイメージを追求していた。
  3. 「人びと」は、社会の中の価値基準を支える「大きな物語」を共有することで、自己の外面的な要素と内面的な要素とのずれを意識しながらも、社会的に自立した人格のイメージを手に入れようとしていた。
  4. 「人びと」は、社会の中の価値基準を支える「大きな物語」を共有することで、自己の外面的な要素と内面的な要素と重ねあわせながら生まれもった人格のイメージを守ろうとしていた。
  5. 「人びと」は、社会の中の価値基準を支える「大きな物語」を共有することで、自己の外面的な要素と内面的な要素と合致させながら、個別的で偽りのない人格のイメージを形成しようとしていた。

よって正解は選択肢2です。悩むとすると、選択肢3、または選択肢5でしょう。しかし、選択肢3は「社会的に自立した人格のイメージ」が不適切です。「社会的に自立」しているかどうかは本文の「一貫した文脈」とは関係ありません。選択肢5は「合致させながら」が不適切です。本文には「揺らぎをはらみながらも」とあり、「合致させながら」は明らかに異なります。

問4以降については、(下)で扱います。

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