「わかりやすく書く」ことは自分を知ること

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こんにちは。

本日は、以前からよく考えていた、私の思う「書く」ことの意味について記します。

もっとも、一口に「書く」といってもいろいろな状況があります。本日、私が述べるのは、何かについて気分がもやもやして仕方がないので言葉にしてみたいという場合や、何かについてレポートを課されたのだけれど、どう書いていいかわからなくて苦しんでいる場合の「書く」ことです。ですから、何かについて強い思いを抱いていて、それを誰かに伝えたくてしょうがない、という場合の「書く」こととは少し違います。以上を念頭に置いて読んでいただくと、イメージが掴みやすいと思います。

私は「書く」ことの意味に、特に、「わかりやすく書く」ことの意味に、今自分はどのようにものごとを見ているのか、また今自分はどのような立場を取っているのか、それを自分自身で知ることができるようになる点があると思います。

ここで大切なのは、「わかりやすく書く」ということです。

具体例で考えてみましょう。例えば、ある建物を「描く」とします。その建物を南から見た様子と東から見た様子は、かなり異なっています。「わかりやすく」描かれた絵ならば、その絵が南から見た絵なのか、東から見た絵なのか、わかるはずです。南から見た絵は、描く自分は今その建物の南に一定の距離を置いて存在しており、南から北を見るようにしてその建物を見ていることを明らかにしてくれます。東から見ている場合も同様です。

「わかりやすく描かれた」その絵は、もちろん、絵を描く場合には自明過ぎて意識することはないでしょうけれど、今自分がどこにいてどのように見ているのか、それをはっきりと前提にしています。

同様な構造が、何らかの主題について「わかりやすく書く」場合もあるのではないでしょうか。ただ、建物を「描く」場合とは逆のプロセスを経ることになります。

建物を「描く」場合のように、自分がいる場所や見る方角を当然の前提として、「わかりやすく描く」のではなく、ある主題について「わかりやすく書く」ことを通じて、自分がいる場所やものの見方が徐々に明らかになってくる、もっと言うならば確立される、このようなプロセスになります。

「わかりやすく書こう」という意思によって、「わかりやすく書く」ことを通じて、はじめて自分の居場所や方向性が明らかになるのだと思います。

「書く」ことの難しさはここに起因していると思います。建物を描く場合、自分がその建物をどこから見ているのか、どのように見ているのか、悩むことは普通ないはずです。描いた絵がどうもごちゃごちゃとしていると思ったら、気づかないうちに南から見た様子と東から見た様子を一つに構成していたよ、ということもないでしょう。しかし、「書く」場合にはそうはいきません。

その主題をどう見ているのかわからない。見上げているのか、見下げているのか。距離は近いのか、遠いのか。南から見ているような気がしていたのに、書いているとどうも東から見ているらしい。自分の立ち位置や、距離感、見方が定まらないと、「わかりやすく書く」ことはとても難しい作業になると思います。

対象について様々な見方を抱えていることもあるかも知れません。当然、それぞれの見方について様々な立ち位置を取っていることでしょう。そのことによって、対象について自分はよくわかっていると感じていることもあるかも知れませんし、反対に、自分の見方や感じ方が一貫しない不安定さを感じているかも知れません。

しかし、いずれにしても、そのような様々な見方を個人の中で健康的に抱えておくというのは、私には不可能なことのように思えます。様々な見方や感じ方を等分に抱えようとするならば、精神が分裂してはしまわないでしょうか。もちろん、テーマによって傍観者的にそのような様々な立場を取ることは可能だとは思いますが、それは、絵を描く前の段階です。

対象についてよくわかるあまり、ひょっとすると、南から見える姿も東から見える姿も、さらには西や北からの姿も書きたくなる場合もあるのかも知れません。確かに、すべての方向から表現できるならば、対象についての真実の姿になるでしょう。しかし、わかりやすく書こうとするならば、その対象と自分との関係を一つに定める必要があります。

もし、対象と自分の関係を一つに定めた上で、四方からの姿を正しく表現しようとするならば、次元を変えるしかないと思います、しかし、そのとき表現者はどこにいるのでしょうか。たとえ可能であり、矛盾なく表現することができたとしても、地に足のつかない、無意味な表現になる気がしてしかたありません。

「わかりやすく書く」ことを通じ、周囲と同化してどこにいるのかわからなかった自分の位置が明確になります。それは、これまで受け入れ難かった位置かも知れません。しかし、自分の位置を知ることは悲しみと同時に気持ちの安定とさわやかな心持ちをもたらしてくれないでしょうか。また、どこを向いているのかわからず、どう動いてよいのか見当もつかなかった自分に別れを告げて、新たに動くことができるようになるかも知れません。

「書く」ことの中で、特に「わかりやすく書く」ことの意味は、そこで自分を発見し、動き始めることを可能にしてくれることにあると思います。

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